1943年2月26日、日本側は蘭印のビマと東部ニューギニアのTerapoにsweepをしかけてきました。ビマにはセレベス島マカッサルから二式戦(Ki-44-IIa Tojo) 76機が飛来し、P-40K Warhawk 25機が迎撃しました。またTerapoにはビスマルク海のLong Islandから二式戦(Ki-44-IIc Tojo) 66機が飛来し、戦闘機 61機(Beaufighter Ic 16, P-39D Airacobra 5, P-40B Warhawk, P-40K Warhawk 25)が対応しました。
前者はsweeeperに比較して迎撃機の数がかなり少なく、また後者ではP-40BやP-39Dといった旧式機や双発のBeaufighter Icが迎撃機の主体だったという悪条件がありましたが、それにしてもこの2カ所の空戦あわせてのスコアは、日本機10機に対して55機もの連合軍機を失うという大敗でした。この時期、すでにパイロットの質自体は日本側を凌駕しているとは思うのですが、まだまだ二式戦には勝てません。機体の性能差もあるのでしょうが、連合軍最高司令官の指揮・戦術もまずいのでしょうね。困ったものです。
フィリピンのセブ島に始めての空襲がありました。セブにはレーダーがなく、航跡線がごくわずかしか表示されていませんが、おそらくカガヤンから来たもの思われます。やってきたのは百式重爆(Ki-49-IIa Helen) 27機で、高度6000フィートからの爆撃でしたが今日は嵐という悪天候だったおかげか、飛行場にAirbase hits 5、Runway hits 18の命中弾があったのみです。それでもセブ島には24分隊の工兵しかいないので修復作業後にも飛行場サービス施設に11、滑走路に1のダメージが残っています。今後、この規模の空襲でも継続されると基地機能喪失は間違いありません。セブ島に駐屯しているフィリピン師団には工兵が6分隊しか含まれておらず、開戦後1年以上経過しても防御施設の規模を3に拡張するのがやっとでした。防御施設の拡張を促進するため、1943年1月30日に奪回したテルナテからシービー1ユニットのうちの工兵だけ20分隊(工兵用車輛=ブルドーザは空輸不能)をカタリナ飛行艇で輸送し終えた矢先の空襲でした。日本側も、重慶に目処がつき、また連合軍が蘭印東部を北上してきているので、早めにセブを叩くことにしたのだと思われます。
2 件のコメント:
いつも楽しく読ませて頂いております。
しかしここのところ日本軍が息を吹き返してきた感がありますね。
史実でのこの時期は、確かガ島撤退が始まっていたような気がしますが、まだ日本軍の水上艦艇やLCUはかなり残っていますよね。それに加えて日本機動部隊もほぼ温存されていると考えると、中々熱い展開ですね。
ブログ主様も前に書いておられましたが、連合軍側にとって小スンダ列島キャンペーンは、資源地帯を直接叩けるという利点があるとは思います。
ただソロモンキャンペーンに比べますと、日本軍は能力の点でも意図の点でも大量の戦力を投入できるのですよね。
私も現在自分のPBEMで小スンダ列島キャンペーンを進めていますが、日本軍が強力で困っています。
こう考えると、いきなり中心に切り込む戦略よりも、周辺的な場所に戦線を設定して、日本軍の中途半端な反撃を誘うという「史実的」な戦略も悪くないのかも……と感じております。
お説の通りかも知れません。ただそうなると、空母を投入せずに済む適当な場所が思いつきません。空母決戦に至らずに戦える戦場として蘭印を選択したのですが...
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